何度も何度も読み返したい。ときどきそんな書評に出合うことがあります。
ほかでもない。「私」に向けて書かれたものであることが、読み手である私にはわかるからです。
書評は、本来、不特定多数の人たちに向けて書かれるものですが、ちゃんと自分に向かって書かれたものであることがわかります。
そしてその書評内で紹介されている本を読まなきゃ、という気持ちになります。
そういう書評が、おそらく、「いい書評」と呼ばれるものなのだろうと思います。
今回、『
街場の文体論』を「朝日新聞」(12/9/16)で高評くださった鷲田清一先生の書評はまさにそれです。
少し長くなりますが、引用いたします――。
「
言葉の起源はやるせない歌や叫びなのか、あるいは痛いばかりの祈りや願いなのか、よくわからないが、少なくともだれかへの呼びかけであったことはまちがいない。「どれほど非論理的であっても、聞き取りにくくても、知らない言葉がたくさん出てきても、『届く言葉』は届く。」このことの意味をきちんと伝えるべく、ウチダは大学教師としての最後のこの講義で、学生たちのこころの襞に沁み込んでゆくような言葉を、手を替え品を替え紡ぎだす。
(略)
言葉をなんとしても届けたいという切迫、それがあれば当然、あれやこれや情理を尽くして語ろうとするものだ。・・・こころを鷲づかみにされるような読書体験のなかで、自分を組み立ててきたストックフレーズにひびが入り、これまで「味わったことのない感触の『風』が吹き込んでくる」、そういう「生成的」な経験が起こる。
こうした言葉の生成的経験を学生たちに知ってもらおうと、ウチダは「リーダブルでありながら、前代未聞のことを語る」ことを自らに課し、「泥臭い」までに言葉を尽くしに尽くす。数あるウチダ本のなかでもとくに気合の入った一冊だと思う」
これ以上の書評はないのではないか、と思うほど本書の魅力がひしひしと伝わってきます。
それは、鷲田先生が、本書を「なんとしても届けたい」と強く思ってくださったからこそだと思います。
その意味では、本書の書評はたいへんに難しいはず。
書かれていることを、書評で実践するのは、もっとも難しいと言えるかもしれません。
しかし、その最難関のハードルを、すがすがしいばかりに飛び越えて見せてくださった鷲田先生。。
もう、ただただ最高です!
本当にありがとうございました!!! しっかりしっかりキャッチいたしました。