2010.05.08 Saturday
目と手で読むから面白い
先日、産経新聞の方から「電子書籍についてひとこと書いてください」というご依頼をいただきました。
門外漢であることを断ったうえで、下記のようなことを述べました。
掲載文、ほぼそのままです!
「電子書籍と本の違い」
「大間のまぐろと同じ味を、好きなときに好きな場所で味わえます。たったひと粒、口に放り込むだけで、10貫分の栄養と味わいが。しかも値段は100円! お寿司サプリ――これでもう、高いお金を払ってお寿司を食べる必要がなくなります」…。
この広告、なんだかヘンじゃありませんか? たしかに理屈は間違ってない。世界中どこにいても24時間いつでも一級品の味を破格の値段で享受できる。それは疑う余地なく便利なこと。けれど何かがヘン。何が? と考えると、「そもそも」お寿司サプリとお寿司は別モノなのだ。「お寿司味」という同種ではあるが、用途も目的も味わい方もつくり方も全然違う。つまり、お寿司サプリを口に入れたところで、お寿司を食べたことにはならない。お寿司サプリを摂りこんだ、という以上でも以下でもない。にもかかわらず、冒頭の広告では別モノの二つを同列に論じている。そのために違和感を覚えたのだろう。後半の「これでもう」以下は不要だし、ここに入ること自体がおかしい。
だが、この「ヘン」なことは今現に盛んに叫ばれている。「電子書籍――これでもう、高いお金を払って本を読む必要がなくなります」こんなふうに。こういう記述を見るたびに、ヘンな違和感をおぼえてしまう。その理由は上記のとおりだ。電子書籍(お寿司サプリ)と本(お寿司)は「読み物」という点で同種ではあるが、味わい方もつくり方も違う、別モノと考えるほうが「しっくり」こないだろうか。
もちろん、本を編集し発刊することを生業としている身にとって、電子書籍が普及することにネガティブな要素は何もない。お寿司を食べたことのない人がサプリを通して「お寿司味」を知れば、本物のお寿司を味わいたいと思うようになるかもしれない。その意味でも歓迎すべきことにほかならない。ただし重要なことは、両者はそもそも別モノであって、共存関係にあるということだ。だから、電子書籍がどんなに普及したところで本はなくならないし、そもそも電子書籍も「本」がなければなりたたない。お寿司の味があって、初めてお寿司サプリが成立するように。
こんなことを言うと、「でも、音楽はCDがなくなってほとんど配信になったじゃない」という意見が返ってくるかもしれない。なるほど。たしかに音楽の世界ではiPodはじめ電子配信の音楽が業界の構造を塗り替えつつある。だが、音楽の例を本に当てはめるのはかなり無理があると思う。なぜなら、この二つは根本的に違うのだ。
音楽は「耳で聴く」もの、本は「目で読む」もの。だが、本には「目で読む」以外に、それに匹敵するくらい重要な行為が必要となる。それは何かといえば、「手で読む」という行為だ。実は私たちが本を読むとき、「目で」読む以外に、「手で」読んでいる割合がそうとう高い。たとえば、速読、資料収集、同じ本の再読…こういうとき、ページをぱらぱらとめくりながら「必要なこと」「思わぬ発見」「昔の記憶」などを手を通して体感している。もちろん、通常の読書においても、読み進むにつれページが薄くなっていく感覚を「手が」感じている。「ああ、もうすぐ終わりだ」「もっと読んでいたい」手で読んだこうしたメッセージを受け取りながら目でストーリーを追う。そう考えれば、「目で読む」だけで得ることのできる要素は実は半分くらいのものだろう。紙質を感じながらページをめくる、ページの位置を手で確認しつつ全体を俯瞰する…本を読むといったとき、こうした「手で読む」ことが、「目で読む」ことと最初からセットになっている。「耳で聴く」ことでほぼ完結する音楽と、決定的に違うところだ。
そう考えれば、本の出版社がこれからやることは自ずと決まってくるように思う。「(目と手で)読んで面白い」本をつくり、読者の方々にそれを届ける。それに尽きるのではないだろうか。2006年10月に創業したミシマ社ではその活動を「原点回帰」と位置づけ、とにかく一冊に「全身全霊」を傾けた出版活動に励んでいる。
本質的に面白い本をつくり、届ける。そこに、紙か電子かの違いはない。
(ミシマ社代表 三島邦弘)
『産経新聞』大阪版 2010年5月7日夕刊より
門外漢であることを断ったうえで、下記のようなことを述べました。
掲載文、ほぼそのままです!
「電子書籍と本の違い」
「大間のまぐろと同じ味を、好きなときに好きな場所で味わえます。たったひと粒、口に放り込むだけで、10貫分の栄養と味わいが。しかも値段は100円! お寿司サプリ――これでもう、高いお金を払ってお寿司を食べる必要がなくなります」…。
この広告、なんだかヘンじゃありませんか? たしかに理屈は間違ってない。世界中どこにいても24時間いつでも一級品の味を破格の値段で享受できる。それは疑う余地なく便利なこと。けれど何かがヘン。何が? と考えると、「そもそも」お寿司サプリとお寿司は別モノなのだ。「お寿司味」という同種ではあるが、用途も目的も味わい方もつくり方も全然違う。つまり、お寿司サプリを口に入れたところで、お寿司を食べたことにはならない。お寿司サプリを摂りこんだ、という以上でも以下でもない。にもかかわらず、冒頭の広告では別モノの二つを同列に論じている。そのために違和感を覚えたのだろう。後半の「これでもう」以下は不要だし、ここに入ること自体がおかしい。
だが、この「ヘン」なことは今現に盛んに叫ばれている。「電子書籍――これでもう、高いお金を払って本を読む必要がなくなります」こんなふうに。こういう記述を見るたびに、ヘンな違和感をおぼえてしまう。その理由は上記のとおりだ。電子書籍(お寿司サプリ)と本(お寿司)は「読み物」という点で同種ではあるが、味わい方もつくり方も違う、別モノと考えるほうが「しっくり」こないだろうか。
もちろん、本を編集し発刊することを生業としている身にとって、電子書籍が普及することにネガティブな要素は何もない。お寿司を食べたことのない人がサプリを通して「お寿司味」を知れば、本物のお寿司を味わいたいと思うようになるかもしれない。その意味でも歓迎すべきことにほかならない。ただし重要なことは、両者はそもそも別モノであって、共存関係にあるということだ。だから、電子書籍がどんなに普及したところで本はなくならないし、そもそも電子書籍も「本」がなければなりたたない。お寿司の味があって、初めてお寿司サプリが成立するように。
こんなことを言うと、「でも、音楽はCDがなくなってほとんど配信になったじゃない」という意見が返ってくるかもしれない。なるほど。たしかに音楽の世界ではiPodはじめ電子配信の音楽が業界の構造を塗り替えつつある。だが、音楽の例を本に当てはめるのはかなり無理があると思う。なぜなら、この二つは根本的に違うのだ。
音楽は「耳で聴く」もの、本は「目で読む」もの。だが、本には「目で読む」以外に、それに匹敵するくらい重要な行為が必要となる。それは何かといえば、「手で読む」という行為だ。実は私たちが本を読むとき、「目で」読む以外に、「手で」読んでいる割合がそうとう高い。たとえば、速読、資料収集、同じ本の再読…こういうとき、ページをぱらぱらとめくりながら「必要なこと」「思わぬ発見」「昔の記憶」などを手を通して体感している。もちろん、通常の読書においても、読み進むにつれページが薄くなっていく感覚を「手が」感じている。「ああ、もうすぐ終わりだ」「もっと読んでいたい」手で読んだこうしたメッセージを受け取りながら目でストーリーを追う。そう考えれば、「目で読む」だけで得ることのできる要素は実は半分くらいのものだろう。紙質を感じながらページをめくる、ページの位置を手で確認しつつ全体を俯瞰する…本を読むといったとき、こうした「手で読む」ことが、「目で読む」ことと最初からセットになっている。「耳で聴く」ことでほぼ完結する音楽と、決定的に違うところだ。
そう考えれば、本の出版社がこれからやることは自ずと決まってくるように思う。「(目と手で)読んで面白い」本をつくり、読者の方々にそれを届ける。それに尽きるのではないだろうか。2006年10月に創業したミシマ社ではその活動を「原点回帰」と位置づけ、とにかく一冊に「全身全霊」を傾けた出版活動に励んでいる。
本質的に面白い本をつくり、届ける。そこに、紙か電子かの違いはない。
(ミシマ社代表 三島邦弘)
『産経新聞』大阪版 2010年5月7日夕刊より