謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
あけましておめでとうございます。

旧年中を大変お世話になりました。
本年が、皆さまにおかれましても、良き一年でありますことをお祈りいたします。

さて、私は今年の目標といったものをつくらないことにしました。
それは、「2014年ミシマ社10大ニュース」の最後に書きましたとおり、
イタリアでの合気道の体験が大きいです。

昨年、上梓した『失われた感覚を求めて』で書きましたが、
「編集者である」こととは、「=まっ白な感覚でありつづける」ととらえています。
それを日々、めざしていこうと思っています。
ただ、それは理論上の話であって、自分のなかに絶対的な感覚として骨の髄にまで染み込んでいるわけではありません。

ところが、多田宏先生のお稽古をイタリアでみっちりおこなえたことが契機になり、
「力んではいけない」ということが、当然のこととして自分のなかに宿りました。
つまり、「何かをしよう」「今年はこれを必ず守る」、そうした決意はときに大きな力になります。
が、それが力みになり、身体をかたくする原因になることもある。
いつしか、その目標を達成するためだけの日々になり、それ以外のさまざまを感知できないことになりかねない。

感覚を高め、維持する日々をめざしているにもかかわらず、
目標にしばられるあまり、感覚を閉ざすことになる。
そういうことになりがちです。

それで、じょじょに、何事においても「起点もなく、終点もない」というほうが
自然ではないかと思えるようになりました。

森田真生さんが「数学の贈り物」で書いてくださったこととも、通じます。
元旦だけが正月ではないのです。
新年の誓いが、正月という起点から、大晦日という終点に向かうものであると、
その間は、その誓い成就のための我慢する時間になる。
そうではなく、正月であれ、大晦日であれ、いつの日であれ、「この瞬間」の連続でないといけない。
とすれば、自分が意識的にやってやろうとする、「起点から終点に向かう断続的な行為」であるより、
大きな流れのなかに自分があるという連続的な生命活動のひとつであるほうがいい。

その思いと実践は、すでに昨年から始まっています。
ですので、今年の目標を「不自然に」つくろうとも思わなかったわけです。

日々を透明な感覚で過ごしていきたいです。
 
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ある既知の大学生から原稿執筆をうけました。
テーマは、「いま大学で学ぶ人々へ」。
母校でもある京大が、教養学部を改変するなど、大きく揺らいでいる。その渦中にいる学生さんも、当初、大いに戸惑ったそうです しかし、「この揺らぎをきっかけとして、私たち学生は初めて、「大学で学ぶとはどういうことか」「教養教育とは何か」といった、自分たちが所属する大学や教養教育について真剣に向き合い考える機会を得たのだと考え」ることにした。
そして、実際にいろんな方々に執筆を依頼し、それを受け、大学生たちの本音を盛り込んだ本をつくることにしたそうです(ナカニシヤ出版さんから出る予定)。


そうした流れで、私にも執筆の依頼が来たわけです。
依頼してくれた学生さんは、拙著『計画と無計画のあいだ』を読み、それまで決定的に何かが欠けていると思っていた自身の転機になった、それは「熱量」だった、と言ってました。
果たして、彼の期待に応えられたか定かではありませんが、ざざっと書いた第一稿をそのまま下記に貼りつけます。


◎「大学生」であるということ


 

近頃の大学生はとってもいい――。

これが僕の偽らざる感想です。ときどき僕たちの会社に学生さんたちがお手伝いに来てくれるのですが、みんな、いきいきとして、のびやかで、とってもいい。何がいいかというと、接していて気持ちが「いい」のです。ちなみに、僕は200610月に単身出版社を立ち上げ、現在は7名のメンバーと東京・自由が丘と京都の二拠点で「小さな総合出版社」として活動しています。倒産軒数が起業数の10倍を超える業界(当時)において、わが社には歴史も資産も経験もありません。あるのは、自分の愛してやまない本というものに最大限の想いを込め、熱量そのままに読者に届けるという、愚直なまでの決意だけ。そんな会社に集まってくれる学生さんたちは、現代においては少数派に属するのかもしれません。が、彼ら・彼女らこそが、真に「大学生」だと僕は思うのです。

ひとことでいえば「社会化」していない。「就活」の言葉に代表されるような画一的な競争に決して最適化しておらず、大勢に流されることを良しとしない。そのために生じる葛藤の中に自らの身を置いている。その勇気と胆力が備わっている。だからこそ、気持ちが「いい」と僕には感じられるのでしょう。

社会のこと、テクニカルなことは社会に出てから見につければいい。

大切なのは、どういう環境においても、自分が大切だと思うことを貫くこと。それを実現させるには、易々とは屈しないこと、感度を下げないこと。たとえ一度や二度、屈しそうになっても、それを時代や環境のせいにしないこと。そうできるだけの「しなやかさ」を併せもつこと……。

社会も時代も絶えず変化しつづけます。だけど、本質は、表面がどれほど変化しても変わりません。そのことを全身で感知している学生たちが、社会に出てからも、その感性を伸びやかに発揮していくことを願ってやみません。そのためにも、僕は出版という活動を通して、社会の「頭」を柔軟にしていかねばと思っています。

 

 

*最後の一文はカットしていいのですが、自身の決意のため入れています。
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 『創発的破壊』の米倉誠一郎先生が朝日新聞(2012/9/17)にでかでかと登場!

yonekuraasahi

「強いリーダーは必要ない」「日本人はもっと世界中を動いた方がいい」「自信に根拠はいらない」などなど、米倉節がさく裂。爽快です。

一見、とても単純なメッセージに思えるかもしれませんが、進まぬ現状を前へと一歩進めるためにとても大切な言葉だろうと思います。自身の実感として、そう思います。
そして、米倉先生のメッセージを実践した先にこそ、現代的な「小商い」がある。それがミシマ社的な見立てです。

その理路については、来週更新予定の「ミシマ社の話」(ミシマガジン連載)で書きます!
今日から日本シリーズが開幕しますね。(ってもう始まってますね)

セリーグはリーグ優勝を果たした中日が出場。
パリーグはリーグ3位のロッテがCS(クライマックスシリーズ)優勝が代表に。

つまり、セリーグ1位VS.パリーグ3位 の日本一争いとなりました。
144試合を戦いぬき、一位になったソフトバンク・ホークスは無念のCS敗退です。

それをうけ、先日ある新聞である元プロ野球OBがこんなことを書いていらっしゃいました。
「かつて日本シリーズは、各リーグの優勝チームが各チームを代表して争うものだった。そのため優勝チームのファンでなくても、自分のひいきのチームが所属するリーグのチームをこのときばかりは応援した。つまり、プロ野球ファン全員が楽しめるものだった。しかし―。
クライマックスシリーズが始まってからは、各球団のファンにとっては楽しみが増えたが、プロ野球ファン全体で楽しむものではなくなった。
国民的イベントではもはやなくなったのだ」

今回でいえば、ロッテと中日ファンしか興味がもてないだろう。
そう指摘されたわけです。

が。
そんなことはないだろう、と思うのです。
たしかに「かつて」の楽しみ方はできないかもしれません。
がしかし、「新しい」楽しみ方は確実にあります。

たとえば今回でいえば、3位のロッテを100%ヒール(悪役)と見立てるというのはどうでしょう。
144試合で3位だったチームが優勝チームに苦汁をなめさせ、這い上がってきた。いわば、非正規代表チーム。
それに対抗する、真の優勝チームでありセリーグ代表である中日が、144試合のペナントレースの威信をかけてロッテを退治する。それも、両リーグにとっての威信をかけて。

セリーグ1位VS.パリーグ3位

の対決はいってみれば、

全プロ野球代表VS.ロッテ

という構図で見ることができるのです。
ちなみに、こういう構図のばあい、ロッテの役目がたいへん重要です。敵役を一手に担うという意味で(ダースベイダーが弱けりゃ、スターウォーズがシリーズ化しなかったのと同じことです)。
プロレスでいえば、ベビーフェイス(善玉)とヒール(悪玉)が戦うという構図ですね。つまり――。

プロレス化するプロ野球。

これが、今年の日本シリーズの楽しみ方なのです。
両チームのファンでない方も、プロ野球にそれほど興味のない方も、今回の日本シリーズは楽しめると思います。
そうです、プロレスを楽しむように見ればいい「だけ」ですから。

というわけで、さ、観ましょ!

(ちなみにぼくはどちらのファンでもありませんが、プロ野球の威信を守るために戦う中日を、今回ばかりは応援しようと思っています。けどロッテもがんばってほしいものです。ヒールは憎まれてナンボ、ですからね)
ミシマ社は、おかげさまで5年目にはいりました。
この間、支えてくださった全ての方々に、心から感謝しております。
本当にありがとうございます。

その思いとともに、5年目の抱負を「ミシマ社の話」に記しました。

そこには書ききれませんでしたが、ぼく個人としての目標は、「ぜんぶ仕事」のスピリットをもう一度、です。
24時間、いつでも楽しく仕事をする。
そんな気持ちでいることを常態化してしまう。すると、かえって、しんどくないものです。どんな突発的な仕事も「ふつう」なわけですから。

そういう気持ちでやってきたのですが、つい、気が緩んでしまうことがあります。
そうすると、如実に「形」となって現れます。
怪我をしたり風邪をひいたりとふうに、体に出てしまうのです。

先日もそう。

二週つづけての、なかなかハードな北海道、九州出張が終わると、知らず知らずのうちに、「ぜんぶ仕事」モードが緩んでいたようです。
その結果、その間の通常業務などが滞り、多少、焦りが出始めました。

気持ちがゆるむと焦りだす。
焦りは心のすきをうむ。
心のすきは体にでる。

この悪循環に陥った結果、先日、アキレス腱を傷めるという「失態」をおかしたわけです(twitterでは、みなさまアドバイスをありがとうございました)。
ほんと、焦りは禁物です。

というわけで、今年は「ぜんぶ仕事」モード全開で突っ走りたいです。

5年目のミシマ社も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
ミシマ社も採用でお世話になった東京仕事百貨が創業二周年を迎えるらしい。おめでとうございます!
で、中村さんから電話があり、「二周年記念に本をつくるから寄稿するよう」言われた。
はい。もちろん、書かせていただきます。
で、与えられた議題がこれです。

「自分の仕事の探し方」

400字で書きなさいとのこと。
ちょうど、ミシマガの「ミシマ社の話」用に、「入口から考える仕事論」というのを考えていたので、そのダイジェスト版をザザザと書きました(で、このブログで早速アップしてしまったので、次週の「ミシマ社の話」は違う話にします。たぶん、テーマは「一番病だった私」)。


●自分の仕事の探し方

ある人は「好きなことを仕事にしなさい」と言う。けど、本当に好きなことなんてやってみないとわからない。ある人は「会社で選ぶのではなく、あなたに合う職種に就きなさい」と言う。けど、その「合う職種」っていったい何? それは果たして一人の人にとって一つのもの? もしそうなら、その一つに巡りあう確率は宝くじに当たるよりも低いだろう。その万に一を探し続けていたら、人生を無為にすごすことになりかねない。だから僕はこう思う。「出口じゃなく、入口から考えようよ」と。つまり、仕事へのアプローチを逆にするのだ。たとえば――どういうとき自分は気持ちよくなれるか。どういう人といると、仕事で喜びを得られるか――こんなふうに。では、「自分の仕事」の入口にはどうすれば近づけるのだろう? おそらく答えは、「自分を開くこと」だろう。不思議なことに、自分を開き続ければ、ある日、仕事が楽しくなってたりする。まずは自分を開ける場所を見つける。それが仕事探しの第一歩では?


400字なので、説明不足の感はありますが、ベースにある考えは、「労働は喜びだ」ってことでしょうか。仕事ってやればやるほど、どんどん自分が自由になっていく。
つまり「開かれていく」。
本来、仕事はそうあるべきだし、そういう場所さえ見つけられたら、どんな仕事だって、気持ちいいものになると思います。「本が好きだから、編集者」とか言う仕事選びに、僕個人はずっと違和感をおぼえているんですね。
そういう問題意識から書きました。たぶん、次々回の「ミシマ社の話」で、すこし関連した話を書こうと思います。

そしてもうひとつ。
実は、働く場所が楽しいかどうかには、全く別の要素もあるのです。
それは何かと申しますと、ミシマ社で言う「オオコシさん的存在」があるかどうか。案外、これがもっとも大切だったりもするのですが、詳しくはまた明日。
明日、自宅を引越します。

自由が丘まで、ときに自転車、ときに電車で、多摩川を渡ってくる生活がいったん終了。今朝は、いつもと変わらぬ多摩川の景色を見ながら、ちょっとしんみりしました。今日でこの景色ともお別れか・・・。

なーんて悠長な感慨に浸ることを、現実は許してはくれません。
今から帰って、荷造り、掃除、袋詰め!
あー、明日に間に合うんでしょうか。

けど、そのあとには念願のmy roomが待っているのです。
ぼくらの子どものころはまだ、「自分の部屋」という概念があまりありませんでした。たまに、マイ・ルームをもった友だちがいて、そういう人の家にいくと「いいなー」と思ったものでした。
こんな空間あったら、めちゃくちゃ勉強するのに!(と思ったかは覚えてませんが・・)
あれから30年近くたって、ようやく「自分の部屋」がもてる。
4畳ほどの小さな部屋であれ、ぼくにとっては最高に幸せな出来事です。

もっともっと仕事をするぜ!
と意気込む日々なのです。

実際、部屋をもてると思うだけで嬉しくなり、引越し作業もがんばれるってものです。
明後日からは違う場所からの出社です。うっしっし。


という個人的な話で何を申したかったかといいますと−−。

ミシマ社の本、「気合い5.0」(半端じゃない気合いで引越しをし、引越しで気合いそのものをバージョン・アップするという無理くりな意味)でお届けしていきたいと思います。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
ときどきミシマ社のお昼は哲学的だ。
今日は、ちゃぶだいを囲んで、味よしさんのお弁当をつまんでいた。
すると、一人が「わたし、断食しようと思うんです」と言った。はてさてなぜに?
「必要以上にご飯を摂っていると思うんです。内臓にいっぱい余分なもの、要らないものがある気がして。それを一回全部出してしまいたいんです」

あらまあ、そうですか。

たしかに理屈はわかる。現代人は余分だらけだと思う。なくても全然困らないものばかりに、時間とエネルギーを使っている(ツイッターなんてその最たるものだと思う)。だけど、その余分が人を人たらしめてるんじゃないですか、とも思う。
まあ、そんなことを語れば長くなるし、お昼ご飯もまずくなるから、貝のように口を閉じる。

そしてぼくは静かに考えた。

「内臓をクリーンにしたいと思うのは人間だけではないだろうか? たぶん、庭にある柿の木は、実の中身から余分なものをとりだし、「実」としてパーフェクトになること、なんてことは求めていないだろう。
きっと、自分の身体の一部を、意識的に「変体」させようとするのは人間だけだ。そんな発想すら、人間以外にはないだろう」

そもそも、とさらに考える。

「ぼくの内臓と思っている内臓は、果たして「ぼくのもの」なのだろうか。
ぼくの体の中にはあるけれど、だからといって、ぼくのもの、ということになるまい。人間の身体をひとつの容器とみたてたら、内臓は、そこに収まる食品たち。とすれば・・・。
その容器に収まっている食品は、その容器のもの、だろうか。ちょっと、そう捉えるには無理がある。
容器は容器、食品は食品。そして、その食品の中に入っている、種やら実やらも、たまたまそこに入っているものにすぎない。つまり、実は実、種は種・・・」

そんなふうに考えていくと、ひとつの疑問に必ずつきあたる。

ぼくの中の内臓と、庭にある柿の実の間には、いったいぜんたい、どういう違いがあるのだろう?

今のぼくにはわかりません。そして、こんな思考をしていたとは、昼食時にはとてもいえません(だって、おいしくなくなりそうだし)。

だから、ちゃぶ台を囲んで食しつつ、ぼくはこう語ったのです。

「断食、いいんじゃないですか。やりたいなら止めないですよ。
ただ・・・」

そうすることで、世界が広がる方向へ向かうといいな。
自分の世界と周りの世界とまだ見ぬ多くの他者の世界が。
遊牧注意報、発令中。遊牧注意報、発令中。

はい、そうです。現在ミシマ社内では「遊牧注意報」が出されております。

ここで念のためご説明しますと、遊牧注意報とは、『遊牧夫婦』を読んだ人が全てを投げ出し、突然「遊牧」にでかねない前段階の状態をさします。
「何か」を察知したわけではありません。
何かを察知してからでは、手遅れです。そのときは、もう「遊牧決定」になっているでしょう。ですから、気配が出る前の今、注意報を発令しなければいけないのです。

そういう意味で、7月初旬に出る『遊牧夫婦』は人を旅へと促すパワーがあります。もっとも、こういう即効性があるのは、おもしろい本につきものでもあります。『謎の会社、世界を変える。』を読むと、たいてい、起業したくなったり、ベンチャーで働きたくなったりするのと同じです。

いい本とは、時に罪深き本でもあります(とはいえ、『ボクは坊さん。』を読んだ人が、「坊さんになりたい!」と思った、なんて声は聞いたことがないので、一概には言えないですが)。


おそらくこれからの数ヵ月、ぼくは、社員の「遊牧熱」を冷ますことに奔走することでしょう。うれしいような、かなしいような(だけど、遊牧一番乗りはぼくが密かに狙っているのです。うっしっし)。

これも一冊の力ですね。
エニグモの田中さんがブログですごく大切なことを書いている。
一部引用させていただく。

英語のスラングでphiladelphia lawyer (フィラデルフィア ローヤー)
という表現がある。

法律にすごく詳しく、やり手の弁護士という意味もあるが、

スラング的な意味としては、
物事を必要以上に複雑にしたり、
狙いがあって意図的に話を変える人のことを指す。


ひとことでいえば、困った人である。
こういう人にかぎって、自分ができると思っていたりするから、いっそう厄介だったりする。
田中さんが言うように、ぼくも、こういう人に会うと、反面教師として気をつけるようにしている。
そのとき、何を気をつけているかというと、「こだわらない」ということに尽きる。
こだわりをもっちゃいけないな、と。

では、どうすればこだわらない人になれるのか?

ひとつの解は、「立場」に執着しないことだろう。
たとえば、ミシマ社を例にとって考えてみたい。

ミシマ社には、編集、営業、仕掛け屋、経理という大きく4つのチームがある。そして8人全員が全チームに属すというやり方をとっている。その理由は、自分が属するチームだけの視点から物事を見て、判断すると、全体にとって不利益なことが多々起こるからだ。ぼくは、そういうのを会社を作る前に、実際に見たり、経験したりして、すごく「不毛」に感じていた。
正直、「なんなんだよ! 自分の立場からだけモノ言うなよ」
と思った。そして、「なら、フリーになれよ」と思った。
じっさい、その通りだと今も思っている。
「自分の得意なのはこうなんで」
というふうに、自分の立場を相手に理解してもらって仕事をしたいのならば、自分の仕事に「全責任」をもつしかない。
つまり、それが許されるのは、「フリー」の人たちだけなのだ。

しかも、重要なことは、仕事は「自称」であってはいけない。
「オレはこの会社であの分野について一番知っているんで」と言ってみたところで、しかたがない。
仕事というのは自分ではなく、他人がつくるものなのだから。

「いい仕事してるね!」
「これやってくださいよ」

と他人から頼られて、依頼を受けて、はじめて「その作業」は「仕事」となる。
どうも、philadelfia lawyer には自称が多い気がしてならない。

話は少し逸れたが、だから自社においては、絶対にそういう不毛な行為を認めたくないし、そういう空気をそもそも作りたくないから、全員全チームとしているわけだ。
「仕掛け屋として」「営業として」あるいは、「これはオレがよく知ってるんで」的態度でコミュニケーションをとりだしたら、ミシマ社は確実にストップしてしまう。
それは、「経営者として」ぼくが唯一、絶対避けなければいけないと思っていることである(それ以外において、ぼくのポジションはこの会社では一切機能しません。だって、全部に属しているわけだから。そんなもん、そもそもない、わけだ)。


長くなったが、
philadelfia lawyer にならないために重要なことは――。


もう、すでに書いたとおりですよね。
気をつけなきゃ。